さて、いよいよ真打登場。オクスブリッジについて説明します。イギリスと言えばオクスフォード、ケンブリッジ。両大学はイギリスだけでなく世界の大学の象徴的存在であり、世界大学ランキングのトップに常に君臨しています。その歴史と伝統、教育と研究の水準において常に世界の学生及び大学関係者の憧れの的です。以下では、通常言われたり書かれたりすることを繰り返すのは時間の無駄ですので、あまり他では書かれていないこと、私の個人的な経験にかかわることを述べます。他の中世の大学が滅んだのに、なぜオクスブリッジは生き残ったのか世界史の教科書で皆さんも習ったと思いますが、現在の大学につながる高等教育機関は12世紀イタリアのボローニャで生まれ(古代ローマ法の再発見)、その後南フランス(モンプリエ、トゥルーズ)、パリ、そしてドーバー海峡を越えて13世紀にオクスフォードとケンブリッジへと伝播しました。15世紀にはドイツの各ラント(領邦)に大学が設立されますが、ドイツ語圏で最初にできた大学はご存知ですか。いまのドイツではないのですよ(カレル(プラハ)大学)。16世紀の宗教改革の後、プロテスタントの大学として設立された、当時のスペイン領(現在のオランダ)のライデン大学とスイスのバーゼル大学は、学問の発達(古典学、聖書学)にとって特に重要です。このような中世型大学の特徴かつ使命は、教会を担う宗教的、財政的、法律的リーダーを育成することです。よく中世の大学は象牙の塔だとか、自由七学芸だとか呼ばれて何か浮世離れした生活を送っていたように思われますが、それは大きな誤りです。浮世離れをした生活を送るためには財産が必要です。当時の最も大きな収入源は農業(土地収入)です。また、聖職者は婚姻をしない、したがって財産は子孫に移転しませんが、教会に寄進された莫大な財産は誰がどうやって管理するのですか。一方、財産のある貴族や王は、婚姻や相続の際、必ず紛争をおこします。その紛争を誰が解決するのですか。このような財政的、法律的諸問題の解決を担う人材育成、これが中世の大学の正体です。もちろん最も重要なのは魂の救済(あの世の幸せ)です。救済されるためにはいくらでもお金を積む金持ちの為(寄付)に、プロの聖書解釈を(有料で)行なう人材を作ったのも教会です。現在のコンサルですね。このように中世の大学は教会をパトロンとして神学、法学(教会法=ローマ法)、医学等をラテン語で教える高等教育機関であり、金持ちの人びとに対するコンサルとして発達しました。ところがご存知のように16世紀以降、肝心のパトロンが内部分裂(宗教改革)をおこし、それを奇貨として国王が新しいパトロンとして登場します。さらに18世紀のフランス革命を経て、19世紀に入ると、国際競争(戦争)に勝つため、工学および医学の研究を重点的に国王(国家)がサポートし始めます。日本が近代国家としてヨーロッパをモデルに大学を作り始めたのがちょうどこの頃でした。教会分裂の結果生じたカトリックとプロテスタント、および国王の三つ巴の仁義なき戦いがヨーロッパ大陸では19世紀前半まで続きます。これに対してイギリス(イングランド)は、この三者がけんかを止めて手打ちをし(寛容)、協力して大学(オクスブリッジ)をサポートするようになりました。これが、中世に生まれた大学が、ほかのところでは消滅または泣かず飛ばすになったのと対照的に、近代を生き延び、現在まで繁栄している根本原因です。皆さん、イングランドはカトリックの国ですか、プロテスタントですか。答えられないでしょう。入試問題には出ませんのでご心配なく。イングランドに政教分離の原則はありますか。建前上とはいえ、イギリス国王は同時にイギリス国教会のトップです。国教会の聖職者は公務員(高級官僚)です。結婚もできます(カトリック国(フランス)ではできません)。聖と俗の境界がきわめて曖昧です。16世紀、丁度の日本の戦国時代にあたるころ、1536年にユース法(Statute of Use)が成立し、これによりイギリスでは土地支配(所有)の形態が大きく変わりました。これによりオックスフォードとケンブリッジは大発展を遂げます。このからくりを説明するためには、そもそも、ここでいう「土地を支配(所有)するとはどういうことか」?が問題です。通常の教科書的説明では、封建制(封建的土地所有)から近代社会(近代的土地所有)への移行、つまり所有権(所有者)は近代的(=絶対的)所有権【日本民法206条】への移行した、となっています。この近代的所有権というのが曲者です。これは、(古代)ローマ法の概念を転用したものです。古代ローマ法において所有権がどのようなものかという議論はここでは省きますが、少なくともイギリス(イングランド)は、ローマ法を利用(転用)したことはありません。みなさん、驚いてはいけませんよ。イギリスには所有権(ownership)という概念(言葉)は、法律用語には無いのです。それに近い概念(いや決して近くはないのですが)はhold (haveではない)ですが、これは『英米法辞典』(東大出版会)によれば、「保有」と訳しています。でも、保有と訳して、みなさんわかりますか?イギリスの法律は、一口で言えば、コモン・ロー(common law)です。コモン・ローは法典化(条文化)されていません。イギリスには、我国のように、六法、つまり民法も憲法も刑法もないのです!但し、法典としては。それはさておき、所有権ではないとして「保有」、では「保有=hold」とは何なのか?これも一口で言えば、「その土地には何らかの由緒がある」ということ、「盗んだもの、ないし不法に占拠して利用しているということはない」ということ、これ(だけ)です。この由緒をめぐって争い、それを裁判で解決(一応)するのが国王(裁判所・裁判官)の最大の役目です。国王のもうひとつの役目は戦争に勝つこと。これができない王様は不要です。日本の天皇と違い、イギリスの国王は万世一系?でもなければ、別にイギリス人(イングランド人)ではありません。なにせ、もともと1066年にノルマン人がイングランドを侵略して支配したのが、イングランド国王の始まりですから。高校の世界史では、ヘンリー8世による絶対主義、続くエリザベス1世、そして17世紀の二つの革命、といかにもフランスと同じ「近代化の発展図式」にあわせて説明していますが、これは土地支配(所有)のあり方に関して、まったく誤った説明です。もし、革命が起きたならば、なぜ国王や貴族がそのまま存続したのですか?イギリスは「革命?」を形だけ経験したのです。そして、本当の意味での革命、つまり土地支配のあり方や経済的重要性が変化するのは19世紀、産業革命の後なのです。しかし、その時、イギリスは海外に巨大な植民地をもち、貴族もあわてて植民地経営に乗り出します。だから、貴族は19世紀以降も生き残るのです。ここで、植民地支配のための人材供給(植民地官僚)を独占したのが、またオックス・ブリッジ、とくにBalliol College Oxford, King’s College Cambridge, St John’s College Cambridgeなどです。もちろん、例外はあります。日本の高校教科書(公民、倫理)で、自由主義(哲学)の旗手、J. S. Millは東インド会社で働いていますが、かれは自宅学習でギリシア語を学び、オックスブリッジには行っていません。さて、話を16世紀に戻します。ヘンリー8世はそれまでのカトリック教会を無理やり国教会に改造します。それにより、多くの修道院の土地を没収し、修道院は消えていきます。オクスブリッジだけが、中世大学から近代を生き抜いたと言いましたが、厳密にいえばこれは誤りで、大学全体としては存続しますが、大学を実体をなす、各コレッジは16世紀に多くが消えたり再編されたりしています。その代表的な例が、1546年、ヘンリー8世自身が創立したオックスフォード大学のChrist Church と ケンブリッジ大学のTrinity Collegeです。前者は1525年創立のCardinal College ( Wolsey創設)を改変したものであり、後者はKing’s Hall (1317年創立)とMichaelhouse (1323年創立)を合併してできたものである。どちらも、国王に使える有能な(聖俗の)官僚を養成するために作られました。また、国王は欽定講座として、Greek, Hebrewという聖書解釈には不可欠の学問と、ローマ法(Civil Law)というヨーロッパ諸国の共通法を学ばせ、大陸諸国と対等に外交できる能力をもつ外交官を養成したのです。もうお分かりのように、イギリスはドイツやフランスが19世紀になって始めた大学改革を300年早く開始したのです。ただし、中だるみがひどく18世紀には低迷していました(アダム・スミスの批判)。覚醒したのは19世紀後半からです。 ユース(トラスト)の謎中世にうまれた大学の中で、イギリス(オクスブリッジ)だけが近代に生き延びた理由は、一言でいえば、ユース(Use)ないしトラスト(trust)です(後者は前者の後継機種)。これは、厳格な封建制の土地支配構造をかいくぐる、巧妙な知恵でした。封建制下では、遺産、つまり王ないし領主から安堵された土地の相続は、原則的には、長子(男子)の単独相続ですが、現実にはこのルールはうまく機能しません(現在の天皇制をみてください)。そこで、このルールをかいくぐるテクニック(方便)として、第三者(法律家がしばしば)に名目だけこの土地支配をまかせて、実際はその利益は妻や娘、次男以下の息子その他(つまり受益者)に与えるというユース(Use方便)を編み出しました。これはもう封建制の成立とともに始まったといっていいくらい初期からあります。誰でもバカ息子、バカ娘はかわいいですからね。あるいは、直接、教会に寄進というのもあったでしょう。だれでも死後は不安ですからね。また、宗教改革以前(カトリック)では聖職者は妻帯できませんので、生まれながらの聖職者という人はいないのです。貴族や有力者の次男三男は、財産をもって、教会に就職して聖職者になるのです。貧しい者や貴族の庶子で頭が良い者は修道院に就職して写字生(scribes)になり、聖書や古典を写していきます(学者scholars)。いずれにせよ、かかる脱法行為は封建領主や国王にとって危険ですので、ユース法を作り、受益者を封建制上の土地支配者とし、負担(税金)を負わせようとしました。これは国王の勝利のように見えますが、そうは問屋が卸さなかった。なぜ?まず、このユース法の文言にも難点があり、その解釈が難しかったこと、第二に、反対勢力(貴族、法律家)の抵抗にあったこと、第三に、遺言法(Wills Act)が成立し、結局、土地の遺贈が認められたからです。バカな子供ほどかわいいというのは、古今東西変わりませんね。このように16世紀から17世紀にかけ、国王はあの手この手で自己の収入を確保しようとしましたが、議会(貴族)の抵抗にあい、結局さまざまな立法も骨抜きにされました。そして、国王の特権ともいうべき封建制に基づく収入、つまり、土地の支配を安堵してやったことの見返り収入が、もはや軍事的奉仕ではなく、経済的奉仕、つまり地代収入だけになります。これは経済変動(インフレ)のより目減りします。ただ、このような事情は貴族にとっても同様です。このころになると土地の流動性(売買)も高まり、もはや領主と農民の封建制のイメージは、実態と乖離しているのです。ヨーロッパ大陸では、ただ地代収入を得るだけの領主、貴族、そして国王の土地支配が、ローマ法から転用された「所有権」のレッテルが貼られ、本来は一つしかない所有権が複数(重畳的)存在すると理解(誤解)されてしまいます。「所有権」は排他的なので、原理上、同一物に複数は存在しえないのです。したがって、17世紀から19世紀初めにかけ、単独の所有権をめぐって、国王、貴族、一般地主が争い、中層の貴族は自滅していきます。国王は消えたり、復活したりしますが、これは一般地主の反映物(カゲロウ)のようなもので、一番重要なのは一般の地主(farmer)です。しかし、みなさん、このfarmerという英語は曲者です。これは汗水たらして働いている労働者としての農民のことではありません。いうなれば、農業経営者で、規模の大小はともかく、自分は例外的にしか(からだがなまらないていど)肉体労働はしません。イギリスに現在存在するfarmerはせいぜい数百人程度です(信じたくない人は信じなくてよろしい)。オクスブリッジは、かかる状況において生き延びるどころか、発展していきます。なぜか。ユース法によって受益者が土地の支配者とされ、そこから国王への負担(奉仕)を負うことに(理論上は)なったわけです。しかし、従来のユースの一部が「トラスト」と名前を変えて残存します。ただ実際は、ユースとトラストという言葉は厳密には区別されずに使われ続けますが。なぜ、ユースの一部が残存したのか。それはその目的が公益(教育、医療、慈善事業など)だったからです。公益目的のユース(トラスト)、学校や大学の目的はまさに教育ですから、公益目的のユース(トラスト)、これに相当します。学校や大学はイギリスの法制度上Charitable Trust、略してCharityと呼ばれます。国王、貴族や有力者はこぞって自分の財産を学校や大学、すなわちCharityに寄付し、その結果大学の財産は一挙に増えることになります。しかも公益目的ですから、その寄付に税金はかかりません。イギリスは、封建制が近代化に単純に向かうのではなく、そもそも封建的な土地支配をかいくぐって存続していたユースを、一定の目的のために存続させ、しかも発展させるという方法をとります。封建制を掻い潜って存続したもの(トラスト)によって、皮肉にも封建制が消滅することなく、つまりヨーロッパ大陸とは異なる形で近代化してゆく。これがイギリス近代社会の(一見すると)非近代的な特徴です。村上淳一先生の『法の近代』という本が東京大学出版会から出ておりますが、そこで、村上先生は、(法の)近代化を英独仏の三つのタイプにわけて論じています。しかし、村上先生はドイツ法の専門家ですので、ドイツとフランスの比較の切れ味は鋭いのですが、イギリス(イングランド)の切り口はあまりよくないように見えます。それは、ドイツ・フランスのようなローマ法を借用して自国の法制度を作り上げなかったイングランドをローマ法の概念で説明するのは無理が伴うからです。ついでにもう一つ。私が学生のころ、1970年代は、日本の社会科学(法学、政治学、経済学)は歴史学との結びつきが強く、当時のブームは、基本的にマルクス主義歴史観かマックス・ウェーバーの社会学の影響下にありました。マックス・ウェーバーの『経済と社会』の一部が世良晃志郎氏らによって、今は無き創文社から翻訳出版されつつあり、私は見栄で原書を買い、比較しながら、『支配の社会学』、『法社会学』、『都市の類型学』などを読んで勉強しました。特に、訳注は大変詳細でそれ自体が(日本では)論文といえるものだった。この労作は『解体新書』にはじまる「翻訳」としての日本の学問の最後の輝きと言えるかもしれない。ウェーバーによれば、支配は、合理的=合法的、伝統的、そしてカリスマ的支配に分類される。彼の生きたドイツは官僚制(専門家)による合理的=合法的(ドイツ民法典など)支配の国であるとされるが、イギリスはどうか?どうも歯切れが悪い。伝統的な名望家(honourable)支配である一方、非合理な支配ではなく、実質的な合理性をもった支配とされているが、「実質的な合理性」というのは、分析を回避している言葉(逃げ言葉)のように私には思えた(る)。ウェーバー自身はドイツ官僚制(専門家)にはアンビバレントな態度をとっているが、イギリスの支配についての評価は私にはよく分からなかった。あれから50年たった今、私が思うに、名望家と官僚制は、たしかに誰から給料(収入)をもらっているかは異なる(ように見える)が、その機能ないし能力は異ならない。ドイツが、法律(法典)に基づく法適用による主観をさしはさまない(?)形式合理性であるのと同様に、イギリスの裁判官(法律家)や官僚(国教会聖職者を含む)もまた書かれた法律(法典)には必ずしも従わないが、ある意味それ以上硬直的な判例法に形式的にしたがって支配するのである。我々は、民法典や刑法典の条文が無いことに騙されてはいけない。イギリス人も形式的に合理的に行動する。もちろん、時代や社会の価値観の変化に合わせて、立法を行い判例も(たまに)変更する。彼らは決してカン(勘)と常識(コモンセンス)だけで対応するわけではない。それはドイツ人にも逆の面で同様のことがいえる。ドイツ人にカンやコモンセンスがないといったら怒られるでしょ。16世紀から17世紀にすでにイギリスには聖俗の官僚制が成立していたこと、他方でイギリスの裁判官が手数料(fee)制( 名望家支配)から国王(=国家)からの給料に移行したのが19世紀半ばであったこと、この二つは矛盾しない。このことがわかるのに私は50年かかった。以上の話を理解するために、詳細は、ベイカー・葛西(編)『コモン・ロー入門』東大出版会2024年第3章、ニール・ジョーンズ著「Property、Equity, Trust」を読んでください。コレッジについてオクスブリッジを理解するためには、イギリス史を理解しなければならないことが、おわかりいただけたとおもう。さて、次に各大学のコレッジについて、いくつかのグループにわけて、その特徴を説明していこう。オクスフォード大学やケンブリッジ大学はコレッジの集合体であり、学部、学科単位で授業や実験は行われるが、イギリスの大学の真骨頂であるtutorialはコレッジ単位で行われる。また、学士課程の入学試験(面接)は、コレッジ単位、そして寝食はコレッジ単位である。学生、とくにundergraduatesにとっては、コレッジが最も身近な存在だからである。就職の際も、which collegeと尋ねられるし、同じコレッジの先輩を頼って会社訪問するのは普通である。それに対して、大学院生graduatesは、確かに各コレッジに所属するが、研究中心の生活であり、コレッジの意義は学部生に比べればはるかに小さい。まず、オクスブリッジ、それぞれ30を超えるコレッジを有する。コレッジ間の相違は甚だしい。その歴史、財力、建物、ガーデン、そして学生の人気と学力など。コレッジ間の学力差は最終卒業試験の平均値によって順位付けされ、かつては公表されていたが、さすがに最近は個人情報のせいか、されなくなった。されなくなると、逆に「うわさ」が独り歩きする。これらの差にあえて目をつぶって、平均的(?)な特徴を列挙すると、こうなる。各コレッジは、毎年100~120名前後の学生が入学する。ほぼ全ての専攻の学生を受け入れる。しかし、小さいコレッジでは全ての専攻とはいかない。専攻毎に、原則として、専任の教員(fellow and tutor)がいるが、専攻(学科)の定員が少ない場合は、いない場合もある。その場合は、別のコレッジの専任教員がめんどうをみてくれるので、心配はいらない。かつて女子は女子コレッジにしか入学できなかったが、現時点ではケンブリッジNewnham Collegeだけがその伝統を維持している。他のコレッジは男女共学であり、男女比率もほぼevenである。寮(個室)、食堂(Hall)、図書室、コンピュータ室、共同スペース(Junior Common Room)、バー、ディスコ、カラオケ、そしてチャペル(お祈り)などが、完備している。コレッジごとに、部活、ラグビー、クリケットグランド、種々のサークルなどがあり、対抗戦(ボートなど)がさかん。サークルの先輩は就職の面倒を見てくれる。学部生向けの奨学金はわずかであるが、これを獲得することは名誉になる。コレッジ間で、ディナーへの招待があり、この社交を通じて、異性・同性の友人を作り、将来の配偶者を探す。イギリスにお見合いがないのは、(私立)学校やコレッジで定期的にディナーやティーに招待しあい、そこで事実上のお見合いをしているからです。さて、コレッジをいくつかにグループ分けしてみましょう。16世紀以前に創立のコレッジ(古いコレッジ)。13世紀中葉に創立された、オクスフォードのUniversity College (Univ.と略称), Merton College, Balliol College, ケンブリッジでは13世紀末のPeterhouse。以上4つが最古。14世紀から15世紀にかけて、合計20ほどのコレッジが創設される。ケンブリッジのKing’s Collegeのような例外(ヘンリー6世が1441年に創設)はあるが、創立者は 国王自身ではなく、国王の妻(寡婦)、聖職者、富裕な商人である。建物は比較的こじんまりしているが(先述のKing’s CollegeやオクスフォードのMagdalenはgrand)、なんともいえない味わい(風情)がある。16世紀の国王自ら創立した威風堂々たるコレッジ。オクスフォードのChrist Church (別名The House)やケンブリッジのTrinity Collegeは、とにかく大きくて見た目が立派。大金もち。ケンブリッジのSt John’s Collegeもこれにいれてよかろう。この中でも、Trinity Collegeは、学生数や教員数がずばぬけて多く、通常のコレッジの二つ分(三つ分)あると言ってよい。ニュートンはじめ世界的な学者を輩出し、ノーベル賞受賞者数も数えきれない。国王創設の講座(欽定講座)もこれらのコレッジに属していることが多い(すべてではない)。19世紀創設のコレッジ17世紀と18世紀にはコレッジの創設はほぼゼロだったが、大英帝国の拡大に伴い19世紀後半から一気に増設される。そして女子コレッジが新設される(現在はNewnham以外すべて共学)。女子コレッジの創設の意義は大きく、とりわけ中等教育の教員養成はここが担う。また女子の法曹や研究者も1980年までは、女子コレッジで教育を受けた(政治家サッチャーも)。1945年以降のコレッジ戦後のコレッジは、まず大学院コレッジとして自然科学を中心に出発したが、やがて国際化(植民地独立)にともない、全世界から留学生を受け入れる。建物はモダンで、見栄えはしないが、居住性はよい。現在ではこのタイプのコレッジでも学部生や社会人を受け入れ、オクスブリッジの国際化を推進している。外国人(日本人をふくむ)にフレンドリーなコレッジもこのグループに含まれる。オクスフォードのSt Antony’s College, Wolfson College, ケンブリッジのClare Hallなど。ここには、日本人は集まるが、イギリス本国人は少ない。ここでお世話になったからといって、これをコレッジと思ってはいけない。余談ですが、これまで私がお世話になった(何らかの身分で所属した)コレッジは、オクスフォードのChrist ChurchとBalliol Collegeです。ケンブリッジではSt John’s Collegeと King’s Collegeです。グループ①と②ですね。1994年2月、Christ ChurchではじめてディナーをHigh Tableで食べたときのことを今でもよく覚えています。High Tableで食べている有色人種は私だけでした。この四つのコレッジをあえて比較すれば、Christ Churchと St John’sはtraditional, Balliolと King’sは radicalという印象です。しかし、四つに共通なのは、Classicsが強い点とcolonialな匂いが残っている点です。私はcolonialな雰囲気のおかげでコレッジの中で生きていくことができました。Post-colonialだったら、きっとオクスブリッジを好きになれなかったと思います。 オクスブリッジへの入学試験や選抜方法については、『文化転移』に書きました。こんど改訂する予定ですので、もう少しお待ちください。