TOPSで教える科目の一つ、コモン・ローについて私はイギリスへ留学しましたが、コモン・ローには全く関心はありませんでした。学生時代、外国法という科目があり、英米法、フランス法、ドイツ法の三科目から一科目取らなければ卒業できませんでした。ほとんどの学生は一番イージーな英米法を取りますが、私はドイツ法を取りました。英米法はビジネスの世界では重要だということは聞いていましたが、私は研究者の道を選びましたので、何か英米法を低く見ているところがありました。しかし、これはとんでもない間違いだったと現在では反省しています。コモン・ローとの出会い私とコモン・ローとの出会いは、忘れもしない1991年6月末、当時の貴族院House of Lordsでした。当時新潟大学法学部の教員だった私は、同僚と一緒にロンドンに行き、どこから入ったかは忘れましたが国会議事堂の裏手から日本でいう最高裁判所に当たる貴族院の裁判所で、ある裁判を傍聴しました。それは、夫婦間でレイプは成立するか、という当時争われていた有名な事件でした。もちろん、現在ではレイプは成立すると認められています。そのときのBarristerの弁論は、まるで博士論文の口頭試問を受けている学生のようなへりくだった口調だったことをよく覚えています。Barristerが行う法廷弁論私のコモン・ロー体験はBarristerが行う法廷弁論から始まっています。今頃になって言うのも変ですが、私の研究上のテーマは説得であり、弁論術です。博士論文は古代ギリシアを扱いましたが、2回目の長期留学(1993年11月-95年1月、国際交流基金)の研究テーマは、紛争解決の手段としての弁論術の比較――古代ギリシア、イギリスおよび日本、でした。オクスフォード大学のクライスト・チャーチに属し、古代ギリシアの研究はオクスフォードで行いましたが、イギリスのいわば生きた弁論術の調査研究はロンドンの法曹学院Inns of Court、特にInner Templeで行いました。このときにお世話になり、現在までTOPSに協力してくれているDonald Cryan裁判官とBarrister、Pamela Scriven QCには本当に感謝しています。法曹学院とは何ですか。これを説明することは、コモン・ローの歴史を語ることになりますので、ここでは参考書だけを紹介しておきます。Baker and Kasai『コモン・ロー入門』東京大学出版会、2023年12月刊行予定。この本はTOPSの教科書です。これを読んで興味を持った人は、Sir John Baker, An Introduction to English Legal History, 5th ed., OUP, 2019.を読んでください。一言でいえば、法曹学院とはイングランドのコモン・ローを生み育てた教育機関であり、同時にBarristerたちの共同体です。ロンドン旅行の際はぜひ一度見に行ってください。イギリスでは法学は大学では教えないのですか。現在ではもちろん教えますが、大学が法学教育を担うようになったのは、戦後ですね。それまでは、そして現在でも大学で法学を学ばないでBarristerや裁判官になる人は珍しくありません。法曹学院には教授がいて講義室などもあるのですか。現在はありません。むしろ法曹学院の教育の中心はディナーを食べることです。つい最近このディナーを食べる義務はなくなりましたが(大変残念です)、伝統的には一定回数ディナーを食べて先輩のBarristerや裁判官から話を聞くことが教育の中心でした。これはある意味ではオックスフォードやケンブリッジのコレッジでディナーを食べるのと酷似しています。私が今でも忘れられないのは、初めてInner Templeのディナーに招待された時のことです。たしか1994年の2月頃、霧の深い寒い日でした。周りの裁判官たちは高齢で、何を喋っているのかよく聞き取れませんでしたが、戦争の話をしていたことは分かりました。私は、また戦争のことか、日本は敵国だったからなあ、と下を俯いて聞いていましたが、どうも話の様子が異なります。そのうち分かったのは、彼らが話題にしている戦争は第一次世界大戦のことだったのです。第一次世界大戦ならば日英同盟の時代ですから、私は胸を張って聞いていればよかったと後悔しました。いずれにせよ、1994年段階では、第一次世界大戦の経験者が生きていたということですね。その後のコモン・ローとのつながりはどうなりましたか。Cryan裁判官を通じて、彼の大学時代の指導教官だったSir John Bakerを知り、1998年の4月には新潟大学で開催された法制史学会で講演をしてもらいました。また、当時の新潟大学では、Law and Language(法制コミュニケーション)というコースを新設し、イギリスの若いBarristerを教員として採用しました。その中のひとり、Gregory Durston先生はTOPSで毎年活躍されています。