高校は日本においても世界においても微妙な位置にある高校と一口に言っても千差万別で、非常に優秀な生徒が集まるアカデミックな高校もあれば、スポーツや芸術に優れた高校、あるいは最近再評価されつつある高専(高等専門学校)など、本当に多様です。ここでは、脇道にそれますが、いわゆる旧制高校について一言述べます。旧制高校というのは、1886年帝国大学創立と同時に生まれました(当初は高等中学校と呼ばれました)。最終的には、国立、公立、私立あわせて39校に上りました(秦郁彦『旧制高校物語』文春新書)。戦後の学制改革ですべて廃止されました。旧制高校に対しては、そのエリート主義に対する批判と、ノスタルジーとが入れ混ざって、現在においてもその歴史的な意義を総合的に評価する研究は出ておりません。私がここで申し上げたいのは、近代日本の教育制度は、上と下から、すなわち大学と小学校から作り上げ、その中間(中等教育)をどのように構築すればよいのか、特に高等教育と中等教育の接続の問題が現在もまだ解決されていないということです。これは、外国においても同様かもしれませんが、日本のように西洋の教育制度を輸入した国においては、一層問題が複雑です。翻訳という方法による学問の継受の問題現在私が考えていることを一点だけ申します。それは、翻訳という方法による学問の継受の問題です。ご存知のように明治以降の日本の学問の最も基本的な方法は外国語(英独仏)文献の翻訳です。翻訳こそ学問、と言ってもあながち間違ってはおりません(大久保健晴『福澤諭吉』講談社新書、2023年)。外国語教育の中心が翻訳である点は、現在まで変わっておりません。大学入学試験にTOEFLやIELTSが採用されない理由は、これらには翻訳がないからです。私は日本の大学入試の科目に英語が入っていることには反対しませんが、問題なのは大学入学後英語を使うことが、一部の専門を除いて基本的にないということです。その理由は、日本の高等教育はすべての学問について翻訳によってなされるからです。これでは何のために大学入試で英語を勉強するかわかりません。戦後の教育改革によって旧制高校が真っ先に廃止されたのは、その行き過ぎた外国語教育に原因があったと思います。もっとも私自身は高等教育において原則として英語で、一部の分野を除いて全ての専門を教育・研究すべきだと考えておりますので、旧制高校の行き過ぎた外国語教育は無駄だったとは思いません。結局、今から振り返って考えると、旧制高校の目的と当時の大学の目的は食い違っていたと言えると思います。それは、一般的には、教養主義と専門主義・実用主義の対立と言われています。しかし、翻訳主義が変わらない限り、外国語教育の問題は永遠に解決されないでしょう。もしかしたら、AIの発達によって、自動翻訳機能が飛躍的に向上し、この問題は解決されるかもしれません。しかしそれでも、自動翻訳されたその翻訳語の意味は原語を知らないと理解できませんので、やはり翻訳問題は残ると思います。